思ってたのと全然違う?!釈迦の仏教〜【すごかった】

仏教って、すごい

うちはゆるーい浄土真宗なもので、ばあちゃん家行ったときは仏壇の前で南無阿弥陀、なんまいだーぶーって言ってたんですよ。

南無阿弥陀って意味知ってますか?南無はナマス、「礼拝、おじぎ、あいさつ」という意味で、「拠り所にします」という解釈になるんだと。そして阿弥陀はアミタ、「仏様」だったり「阿弥陀如来」という意味でだと。

エウレカのアミタドライブは仏様ドライブだったのですか。

確かにアミタドライブはトレゾア研究所が生んだ人類の叡智の結晶。このサトリプログラムでニルヴァーナ(仏教用語で涅槃)をぶあーーって確かに。

・・

南無阿弥陀仏は『私はアミタ仏様を拠り所にします、アミタ仏様を尊びます。』といった意味になるようなんです。浄土真宗で日本史で思い出すのは『信じるものは救われる。極楽浄土へ導かれる』といった親鸞の教え。阿弥陀如来を信じることで、死後に極楽浄土へと旅立てますようにと願う人たちからなる鎌倉時代に成立した仏教の一つでした。

言うなれば、わたしたち一般市民は、出家するわけではなくただ信じ祈ることで、阿弥陀如来という他力を利用し極楽浄土へ旅立つということ。

『他力本願』という考え方らしい。

ただ一つ勘違いしないようにしたいのは、他力本願は現在使われているネガティブな意味ではなく、大乗仏教という仏教派の中で至極立派な考え方でした。

仏さまの生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。

浄土真宗西本願寺

仏教徒という認識よりも、仏壇や墓の前で南無阿弥陀と唱えるのが普通の日常として溶け込んでいた中で、1年少し前ぐらいにPodcastでCOTEN RADIOの『♯132 最澄と空海 – 悟りを開いた男たちの生涯』や『♯79 三蔵法師・玄奘 – 終わりなき知的探究心の旅』を聞いてびっくりしたんです。

思ってたのと全然違った(´⊙ω⊙`)

これは宗教なのか?!いや、哲学?!いや、精神科学?!

宗教的なというか、検証不可能な非科学的な要素ももちろんあるのだけれど、ロジックの積み重ねによる『心の科学』という要素がとても興味深く、魅力的でした。

最澄と空海の密教や玄奘の空の思想、唯識など面白いものは多々ありましたが、今回はその元祖の元祖、天上天下唯我独尊!釈迦の時代について紹介したいと思います。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

エウレカセブン

ザ・自力本願!!

釈迦のいた時代と出家

釈迦の本名はガウタマ・シッダールタ。釈迦族の皇子として生まれますんですね。ちなみに仏陀(ブッダ)というのは『悟った人』という意味なので、Goooodmenも悟ることが出来れば仏陀(正確には羅漢)にはなれるけど、釈迦は個人なので釈迦にはなれません。

時代はだいたい紀元前5〜6世紀ごろ。つまり2500年ぐらい前。

2500年前と言えば、ジェイムズウェッブ望遠鏡(JWST)が捉えた南のリング星雲がだいたい2500光年先の天体。つまりこの星のこの瞬間の頃です。

JWSTが捉えた南のリング星雲の画像。
左: 近赤外線で捉えた画像
右: 中間赤外線で捉えた画像
NASA, ESA, CSA, and STScI

他にもだいたい孔子がいたり、色々やってだ時期。ちなみにパスタはまだです。この天体が意識持ってたら、ジャネーの法則で1年とか一瞬笑

そんな時代ですが、インドではバラモン教全盛期でした。

バラモン教とインド史

バラモン教も歴史の長い宗教ですが、その始まりはインド史と深い関係があります。紀元前1500年ごろ、もともとわたしたち日本人と馴染みの深い黄色人種しかいなかったと思われるインドに、かの有名な民族が侵略して来ました。

それがアーリア人です。

出典: ムダヅモなき改革

この民族は今のヨーロッパやイランにも移り住んでおり、現在のそれぞれの言語が類似しているということからも『インド・ヨーロッパ語族』と、呼ばれているようです。

第一次世界大戦後、ナチスドイツの思想統一戦略で自分達を純粋なアーリア人だと謳い、アーリア人の優生思想を用い、ユダヤ人の迫害に繋げたことから、『アーリア人』という言葉を使う時には慎重にならないといけないようです。

そんなインドでしたが、アーリア人は独特の宗教感も同時にもたらしたんですよね。

それは日本で言う八百屋の神。太陽にも雨にも、はたまたギャンブルにも戦争にも神様がいます。例えば、戦争に勝ちたかったら戦争の神『インドラ』に気に入られなければなりません。

出典: パズドラ

日本で言う『帝釈天』です。

そのために国の王様は、戦争をする時にインドラにお願いをしたいと思います。しかし、神様にお願いやお供えをする時、普通の人がしても全く効力を発揮しません。神と交信できる特別な人しか祈祷しても意味がないとされていました。

そう、この祈祷する人がバラモンです。どこぞの王様が戦争をする時、インドラへのお願いをバラモンを通して行います。お供物はもちろんバラモンの懐です。

この世界観の中で、バラモンは王様より偉いんです。

バラモン教の世界ではこの司祭階級バラモンをピラミッドの頂点に、そしてその下に王や貴族のクシャトリアという階級、その下に一般市民のバイシャ、もっと下に奴隷のシュードラを起きました。これが現在もヒンドゥー教で引き継がれているカースト制度の由来です。

このカーストの中でバラモンとクシャトリアはそのほとんどがアーリア人。侵略したアーリア人がその下に土着の民族を従えるといった構造になっていました。

そしてこのカーストは絶対的なものであり、出生とともに決まります。どんなに善い行いをしようとも奴隷の子は一生奴隷。職業選択の自由もなく、汚れの多いとされるカーストの低い人はカーストが上の人と触れ合うことすら許されません。ましてや衣食住をすることなんて絶対に有り得ませんでした。

ちなみに今も引き継ぐヒンドゥー教は、世界宗教ではなく民族宗教に分けられます。

民族宗教というのは単一の民族のみが信仰する宗教です。世界宗教というのはキリスト教が分かりやすいですが、世界中誰でも民族問わず信仰できる宗教です。

ヒンドゥー教のカーストは生まれながらに決まっていて、ヒンドゥー教以外の人はアウトカーストです。そのため新しくヒンドゥー教を信仰したいとする人がいても、カーストは1番下になります。一生ですし、自分の子供も否応なくそのカーストです。

そのためヒンドゥー教は世界各地で広まることはなく、民族宗教となっています。

絶対的な神様たちが決めたカーストと、支配階級バラモン。

釈迦の生まれた時代はそんな時代です。

インドの社会の世界観『輪廻』

出典:NARUTO-ナルト- 巻ノ四十一 59ページ 著者:岸本斉史

また当時のインドでの世界観がもう一つありました。輪廻です。

無限に続く始まりも終わりもない時間の中で、生き物はみな『天』『人』『畜生』『餓鬼』『地獄』という5つの領域で永遠に生まれ変わりを繰り返すという世界観です。

今の行いが生まれ変わった時の世界を決める、一生懸命に生きるということを諭した世界観かもしれません。

この輪廻は仏教にも取り入れられます。仏教の科学的というよりは宗教的な要素ですね。

釈迦の生まれと出家、仏教の始まり

釈迦の生まれはこのクシャトリア階級。

釈迦族の皇子として、バラモンではありませんが、とても裕福で欲の満たされる楽しい楽しい生活を送っていました。

なんでも出生の時に占い師に『めちゃくちゃすごい王様』か『出家してめちゃくちゃすごい悟りを開く人』になると予言され、出家されてはたまったものではないご両親は、最高の勉学環境や衣類、食事など快楽のかぎりを与え、この世の苦しみだとかは一切排除した生活を送らせたのだとか。

出家ってたいがい悩み苦しんだ人がそれを解決するためにするものですから、出家をされたくない両親が、苦しみを避けさせるのは当然だったのかもしれません。

ただやはり釈迦は釈迦。

その時世の中を支配していたこのバラモン教の不平等がとても嫌いでした。手塚治虫の『ブッダ』でもこの辺は描かれてるみたいですが、誰がこんなカーストを決めたんだ!と憤っています。釈迦の宗教感は、こんなバラモン教を変えたい、アンチバラモンの考えが色んなところに刻まれています。

そんな釈迦ですが、大人になったらある日、馬車で遠出をしました。

その時に道ばたを歩くヨボヨボの弱々しい老人を見て衝撃を受けました。また別の日には病気している人を、別の日には死者の亡骸を見て、そしてこれは万人に起こることだと理解し、絶望に打ちひしがれます。

これまで贅の限りを尽くして来た釈迦の周りにはこのような苦ごありませんでした。

この『老・病・死』は自分も決して避けられるものではなく、それならば贅沢を望み、欲望を求めることに何の意味があるのかと。人生はなんと苦悩に満ちたものだろうかと悩み苦しみました。また、そのにインドの社会観、輪廻が関係してきます。

ただでさえ、避けることが出来ないこの苦。これは輪廻によって永遠に繰り返されるという絶望を味わいました。悩みに悩み、苦しみに苦しんだ結果、釈迦はとうとう出家することを決めます。

この辺は本当かどうかわからないけれど、妻と子を置いていく屑エピソードがあるとかないとか。手塚治虫のブッダを読んでみてくれ。

出家した釈迦はまず、断食や苦行をするのだけれど、全く悟れる気配がないことに気づきました。苦悩を取り除くことができません。そこで釈迦は肉体的な苦行をやめ、精神を集中し、この苦悩を本体を見極める修行に移りました。

ネーランジャラー河で沐浴し、菩提樹のもとで瞑想を行いながら考えに考えた。

瞑想ってやっぱすごいみたいで、最近は偉い人みんなやってると言ってますよね。アップルの昔の偉い人とか、どっかの経営者とか。

瞑想自体は者よりも1000年以上前からインドでは行われていたんだ。精神集中の方法。ざっくりいうと外の情報を遮断することのようで、目や耳、鼻、口、肌なんかの雑多な情報を一切無視して思考に尽くす。大学入試とか受けてる時とかのあの集中具合らしい。いや全然足りんかもしれないけれど。まあでも確かに外の情報とか全く入ってこなかったもんな。

この精神集中、瞑想を手段として、ついには苦を克服する悟りを身につけた。この時釈迦は『目覚めた人』、すなわち仏陀となりました。ちなみに釈迦が悟りを開いた時にいた木を菩提樹と言うんだけど、なんで木の下に居たのか分かる?

その理由は、涼しいから笑

なんか本当に難題に挑戦しようと思ったら、ベストな精神集中できる環境って必要なんだね。

その後釈迦はこの悟りを他の人へ教授することなく人生の全うしようとしますが、何かをきっかけに、この道を他の苦しんでいる人たちに分け与える旅に出ます。このきっかけをブラフマンというバラモン教の最高神が布教を懇願したからだという説もあるみたいですが、非科学的なのでとりあえず置いておきます。

釈迦はその後約45年人々を導き続け、『サンガ(僧団)』という組織をつくり、静かに息を引き取りました。

これが仏教の始まりです。

釈迦の教え

釈迦の教えとはどんなものなのか、見ていきましょう。

釈迦の教えの根本は、経緯からも分かるようにとにもかくにもこれ、『苦しみからの脱却』です。つまりは苦悩をどうやって克服するかにものすごくコミットします。

縁起と諸行無常

まず一つ目釈迦が瞑想の中で見つけたもの。それは『縁起』と呼ばれます。

ある原因が一つの結果を生み出し、またその結果が一つの原因となり、結果を生み出す。この世のあらゆるものは互いに関係しあっていて、一定のものなど一つもないんです。

サハラ砂漠をすべてソーラーパネルで埋め尽くすとどうなるかという有名な思考実験みたいですね。

What if we covered the Sahara with solar panels?

思いも寄らないところで皆つながっているもんです。

またラプラスの悪魔って知っていますか?

科学にも縁起と同じ、因果律ってのがありますから、物事はすべて原因と結果でつながっているんですね。

その中でもラプラスの悪魔は超越的な存在で、とある時点での作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持っているので、今後のあらゆるものがどうなるかわかるという存在です。ビッグバンのときの力学的・物理学的状態から2022年の今の私がいる状態まで導ける仮想の存在。僕ぐらいの人間でも、点Pが時速○kmで進んだら●時間後にどれぐらい進んでるということぐらいはわかるんですけどね。

高校の科学で元素の周期表見てたときに、これちゃんと理解すると、理論だけでいろんなことわかって、未来どうなるかもわかるんじゃね?って思ったの思い出しました。

まあこのラプラスの悪魔は量子力学によって否定されてしまいます。縁起でも予測できるというような言い方はしません。

この世のいろんなものは互いに影響を受け合い、常に一定のものなどなく変化しているよ。だからこれがずっと続くなんで思っちゃいけないよ。これが『諸行無常』の理です。

高校の化学の先生が言ってたんですよね。ダイヤモンドとグラファイト、同じ炭素でできてる同素体ですけど、ポテンシャルエネルギーはグラファイトが低い。つまりダイヤモンドも何億年って経てば勝手に炭に変わる。彼女にねだられたらそう言えって。

エントロピーの法則とかもそうだよね。専門家じゃないからしらんけど。

諸行無常っすね。

無明という煩悩

この世は諸行無常であり、ずっと同じものなんて何もないのに、様々な事象を自分の都合の良いように、はたまた無意識的な心のフィルターを挟んで捉えてしまうこと。これを『無明』といいます。物事を正しく理解していないという意味で、煩悩って呼ばれる心の悪い作用の一つで代表格みたいなやつです。

私たちが人生思い通りにならないことが多くて、苦しい思いをするのは、このルールに気づいておらず、ルールに反して生きていこうとするからなんですって。無意識にかけてしまっている偏見やフィルターを外して、物事を正しく捉える。この無明という煩悩を消し去りなさいというのがまず一番の教え。

釈迦はめっちゃ精神集中して、瞑想して自分が正しく捉えることができていなかったことに気づいた。釈迦の場合は『老・病・死』はなぜ自分を苦しめるのかという問いに瞑想し修行した結果、無明であったことに気づき、煩悩を消し去ることに成功した

この無明は人間の根本的な認識の誤りから来ているらしく、それは『自我』に対する認識。人間は普通、自分の利益のため、幸せのため、楽しさのため、自分の都合の良い方向に物事を運ぼうとします。
自我という世界の中心を想定し、欲しい物を手に入れたりと、意のままになる縄張りを増やそうとする。

出典:幽遊白書 玄海師範

これが『執着』と呼ばれる煩悩です。財産欲、所有欲、承認欲、出世欲など様々な欲に代表されます。自分は世界の中心だという無明が執着を生み出している。生活レベルって一度上げたら下げられないっていうよね。煩悩だわ。

この無明と執着は煩悩界のトップ2。

釈迦は『自我がある』と思い込んでいる事自体が、そもそもの間違い。この世の全てに自我はないと瞑想で考えに考えた結果たどり着い た。

笑い飯の哲夫が

世の中は全部カレーや、と考えたらいいんですよ。お鍋の中に入っているカレー、ジャガイモとかニンジンとかお肉とか全部が溶け込ん でいるカレー、あれがこの世の中だ、地球だ、宇宙だと。そこに無数の小さなお玉がすくいに来るんですね。たまたま一個のお玉に入っ たのが自分やと思ったらいいんです。そして別のお玉に入ったのが椅子だった、この俺の本だった、というような感じでね。で、お玉にすくったやつはこぼれてまた鍋に戻るんです。戻ったら、 また大きいものと一緒になるんですよね。こんなことをずっと繰り返 しているんですよ。これがこの世の中だよ、地球だよ、と考えたら、 結局、みんな一緒でしょ。みんな同じカレーなんですよ。 

https://www.milive-plus.net/笑い飯-哲夫が語る-テツガクとの出会い/笑 い飯-哲夫が語る-テツガクとの出会い4/

って言ってて、なるほどなーと。自分があるように見えるけど、自分の脳が作り出す錯覚なんだと。私もあなたも一緒だからと。

これを諸法無我と言うんだって。

仕事での人間関係とかで何か嫌なことがあったときは、なんかCとHとOとNとその他諸々のなんかの塊がなんか言ってるわ。怒っててかわいそ。それ全部ブーメランやぞ。

無明と執着の煩悩捨てられたら、これが思い込ませなくても行けるようになります。たぶん。

修行あるのみ

釈迦は瞑想してこれらのことに気づき、煩悩を全部で108個見つけます。この煩悩を一個一個消していくことが修行でこれが出来たら悟りの境地。

めっちゃ大変よね頭で理解するレベルじゃなくて、本当に何があっても揺るぎないよう自分の中にこれらのことを確立するので。豆電球例えられるんだけど、刺激によってスイッチがオンになった豆電球をオフにしていくんじゃなかって、豆電球自体を破壊して、スイッチがオンになっても点灯しないようにするんだって。

本当に長い時間とエネルギーが必要なので、釈迦の教えは出家しないととてもじゃないと達成できないんだよね。

超越者が存在しないことを知り、ただひたすら自分の修行によって苦から解放される。一切皆苦の世の中を輪廻によって繰り返され、人は永遠の苦しみにある。諸行無常を知り、諸法無我を知り、煩悩を滅却することで解脱し、涅槃に入る。

釈迦の仏教はスパルタよ。自己鍛錬プログラム。

これが以降の大乗仏教が生まれる理由みたいなところになってきますわ。

仏教まめちしき

煩悩と脳科学

釈迦の時代からもう2500年も経っているので、人もいろいろ発展してきました。

科学は物質世界だけでなく、精神世界も対象とするようになりました。そう、脳科学です。心の出来事を脳や神経細胞の働きで説明し理解しようという学問で茂木健一郎とか有名よね。

色彩心理学とか見るといつも思うのが、赤は気分を高揚させ、青は落ち着きと集中を与えるってあるんだけど、なんで?ってなるのよね。そう言うのを説明できるようになるのが脳科学。

今回参考にした本の中で、こんな話があったのよ。

人の脳は情報を感覚器官から得た後、脳の中で作り直します。

カニッツァの三角形

これは有名なカニッツァの三角形という絵なんだけど、どう見ても三角形が二つあるよね。なんか黒線で書かれた三角形の上に白い三角形があって白い三角形は背景より白色が明るく見えるよね。

でもここには何もない。色も明るくなんてない。ただただ脳が補正して作り上げた錯覚。これは視覚から得られた情報と脳で作り上げた情報が異なっていると言う話し。

あれ、これ煩悩じゃね?

脳科学的に、こういった様々な器官から得られた情報を訓練、つまり修行で矯正が可能なのか。仏教を進展させるのは脳科学かもしれないですね。

布教の考え方

釈迦は悟りを開いた後、他の人には理解できないと思ってそのまま死ぬまで黙ってようと思ったんだって。だから、仏教の教えにこの教えを開く普及せよってのはないんだって。

修行してる姿を見せて、苦しんでる人が来たら、この教えを教えてあげなさいっていう感じ。

だから布教自体ぜんぜんしてるイメージがないのね。

死んだ理由は食中毒

釈迦は最期食中毒で亡くなるらしい。そして復活もしない。

この辺がなんか現実的で宗教っぽくないなーっ思わせられました。

最後に

仏教の経典であるダンマパダってのに、有名な言葉があります。

実はこの世では恨みによって恨みが鎮まるということは決してない。恨みは恨みを捨て去ることで鎮まる。これは永遠の真理である。

ダンマパダ

スリランカとかタイって、釈迦の教えを割と色濃く継いでいる上座部仏教の国なのよ。“微笑みの国タイ”の由来ね。

スリランカの大統領が、第二次世界大戦の後のサンフランシスコ講和会議で対日の賠償金放棄を訴える演説で用いたんだってさ。日本への厳しい制裁を求める旧ソ連に対し、自国の賠償請求権放棄を表明するとともに、日本の早期の国際社会復帰を訴えたんだってさ。

考えさせられますね。

釈迦が瞑想で得たものにはもっと深い論理展開と、ありがたい言葉がいっぱいあるので、気になったら調べてみてくれい!

やっぱり宇宙船地球号ですな。

ではまた!

参考書籍・おすすめ

▼釈迦と初期仏教のその考えとがよく分かる本。自分が知らなかった仏教がここにあった。

▼仏教に興味を持ったあと一番最初に読んだ本。仏教と宇宙好きにはたまらない。

▼釈迦の仏教による正しい世の中の見方は現代の私達の心にも響く。NHK『100分で名著』シリーズ。

SukeのPhoto Portfolioやおすすめ
最新情報をチェックしよう!