中野正貴 / TOKYO NOBODY

今回はかっこいい日本の写真家をみんなに紹介しよう。

中野正貴、彼は1955年生まれ、現在67歳の写真家だ。

2000年、無人の東京を撮影した写真集『TOKYO NOBODY』 (リトルモア)を発表し、映画や文学にも影響を与え話題となった。

写真家になるまで

彼は武蔵野美術大学に入学し、その二年生の時写真に出会った。元々真面目でなかった彼は、写真家の教授に夜中の2時まで説教をされたことをきっかけに、見返したい気持ちから、課題に熱量を持って取り組んだ。

その内容がホームレスの生活の撮影だ。写真は度胸試しの時代だった。説教された1週間後にその作品を教授へ提出し、賞賛を受ける。

中野正貴の写真家人生はここから始まった。

そして彼は大学3年生の時、当時流行していたアメリカの西海岸へ行き、写真の熱意真っ盛りな彼は帰国後、写真家の秋元茂に弟子入りする。

多摩美術大学出身の秋元茂は、美大のデザイン科から写真家になることの苦労を共感でき、よく話が合った。

ただ周りにはスタジオ上がりの優秀なアシスタント。仕事内容はどうしてもアシスタントである以上写真家の手伝い。一刻も早く自分で撮りたい美大出身の畑違いである中野は、葛藤を抱えた。

そしてそんな時に現れたのが美大の先輩のコピーライター。

出会ったのは原宿セントラルアパート。当時の若者文化中心の施設だ。このコピーライターから仕事を紹介され、中野は秋元茂のアシスタントを辞める。アシスタントはわずか9ヶ月の短い期間だった。

ただそこで得られたプロの写真家の環境、取り組み方は中野にとって後の大きな財産となった。

その後の中野は全て独学。

雑誌のポートレート写真のモデルの瞳に映った光の具合から、ライティングの向き、数、距離などを全て参考にし、自分の写真に取り込んでいった。

そして順調に仕事を増やしていったある時、中野のアメリカ熱が再発する。当時のレギュラーの仕事を全て捨て、中野は3ヶ月間アメリカへと渡った。

この時中野が憧れたのが『ニューカラー』と呼ばれる作品もしくは写真家たちだった。

ニューカラーと中野

ニューカラーというのは写真のひとつの時代の潮流だ。写真の歴史の中で、どのような写真が素晴らしいという流行が生まれる中で、前時代の流行とは異なるものを模索する中で生まれた。

大雑把に流行の順番を説明すると

『絵画主義的写真』→『決定的瞬間』→『ニューカラー』

生まれる潮流はいつも、『新時代』だ! ←最近見てきた!

『ニューカラー』がメジャーとなる前、写真は『決定的瞬間』と呼ばれる考え方が主流であり、モダニズムの頂点を迎えていた。

その時の写真は、いかに絵画のように写真を撮るかといった絵画主義的写真(ピクトリアリズム)から脱し、写真独自の芸術性を突き進めることが重要だと言われていた時期だった。

時代を変えたのは1925年の『ライカ』の発売。大判カメラが主流だった時代に小型の操作のしやすいライカのカメラは偶然の一瞬を捉えることをとても向いていた。

大判カメラ
写真: 日本カメラ博物館
(左)「ライカ0 (試作機)」1923(大正12)年
(右)「ライカM (Typ240)」2013(平成25)年

絵画主義的な時代から、人間的興味、野次馬的好奇心に写真の対象としての興味がむけられ、偶然の一瞬を芸術的に構図することが目指される中で、その頂点を極めたのがアンリ・カルティエ・ブレッソンの1952年に発売された写真集『決定的瞬間』だった。

“1932 Behind the Gare Saint-Lazare, Paris” Photo by Ur Cameras
source: https://flic.kr/p/AH2DUK
“M4 Cartier-Bresson Henrì 2” Photo by Ur Cameras
source:https://flic.kr/p/C2GNnJ

一枚目の写真は『サン・ラザール駅裏』という写真で世界的に有名だ。この写真の面白いところは、男性の足が水たまりにつきそうなその『瞬間』を、水面に写る対称性、そして奥の壁のポスターとの類似性、さらにはそれがまた水面に写る対称性。その他時計塔と人と人の直線的な配置など、偶然の一瞬が芸術的に構図された写真であったことだ。

大判カメラでどっしり構えて撮影するスタイルから、小型のカメラで一瞬を切り取るスナップショットというスタイルが生まれた時代。

そしてまた歴史は繰り返し、脱『決定的瞬間』の流れがやってくる。それが、『ニューカラー』と呼ばれる潮流だった。

ニューカラーの写真家たちはようやく手に入れた小型カメラを捨て、ピクトリアリズム時代の大判カメラに戻る。撮影対象は決定的な瞬間などではなく、何の変哲もない風景。

その写真には何の時間もなく、人々の大げさな表情もない。ただただ繰り返される凡庸な日常の光景があるだけだった。

1976年にニューヨーク近代美術館で『Photographs by William Eggleston』という展覧会が開かれた。

その展覧会でエグルストンはアメリカ南部の殺風景な日常を、カラー写真で撮影し称賛を浴びた。

Photo by William Eggleston
Photo by William Eggleston
Photo by William Eggleston
William Eggleston

これまでカラー写真は品質の問題から芸術には向いていないとされており、モノクロのものばかりだったのだが、カラーのより深い表現を表し、芸術として認められるに至った展覧会としても有名だ。

このことから、この時代の、決定的瞬間から脱し、日常のなんの時間のない写真をカラーで収めた人たちのことを、『ニューカラー』と呼ぶようになった。

ニューカラーの特徴はパンフォーカス、つまり写る全てのものにピントを合わせる撮影スタイルだ。背景をボカしたりなどせず、写る全てが等価値であるという認識こそが新しい時代の流れとなっていった。

パンフォーカスするためには、レンズの絞りを絞り込む必要がある。絞り込むと追うことはシャッタースピードを遅くする必要がある。三脚を構えて撮る必要があり、広く撮ることに向いている大判カメラも撮影スタイルに合っていた。

中野も東京中を大判カメラを担いで歩き回っている。

中野のTOKYO NOBODYは、無人という特徴こそあれ、その撮影方法、撮影対象からくる哲学は、ニューカラーから強く影響を受けていた。

中野正貴/TOKYO NOBODY

アメリカから帰国した中野は1990年からこの大作、『TOKYO NOBODY』に取り掛かり始める。

題材は無人の東京。

テーマは誰もが思いつきそうであるものの、誰も行っている人は居なかった。撮影はやはり困難を極めた。ゴールデンウィークやお盆、正月を利用し、無人の時間を探した。そして時間帯にもこだわりがある。早朝に撮影すればいくらかシャッターを切れる可能性は増えるかもしれないが、中野はそれを嫌った。

写真のほとんどがホワイトバランスが赤色に寄っている。つまり撮影は昼から夕刻前。人のいない早朝に撮ったのではなく日中に撮ったことを示し、写真の隅にまで無人に対するこだわりが詰まっていた。

TOKYO NOBODY / Masataka Nakano
Photo by Masataka Nakano
Photo by Masataka Nakano
Photo by Masataka Nakano

中野の撮影は11年にもおよび、2000年に写真集が発売された。

現実であるのに無人という要素からフィクション、SFを想起させ、両要素の両立という矛盾したような感覚を私たちに与えてくれた。翌年には日本写真協会賞新人賞を受賞し、作家やクリエイターなどさまざまな分野は影響を与えている。

最後に

ニューカラーっぽいレタッチを勉強してみた!うん、難しいね。

Photo by Suke
Photo by Suke

TOKYO NOBODY以外にも色んな写真集出してるから、目に止まったらぜひ見てね!

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