【倶舎論②】こころの世界を明かす!内的世界のしくみ

お疲れ様です。

Twitterをトゥイッターと言える勇気を持ちたい。GoooodmenのSukeです。

今回は倶舎論パート2。現代でいう精神世界の構造が遂に明らかになります!
この構造の緻密さ、面白さにはハンターハンターも驚きでしょう。(連載再開ありがとう!)
(こっちもよろしく【倶舎論】仏教の世界観が面白い【物質界の話】

こころ

—私は其の人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書く丈で本名は打ち明けない。—
(夏目漱石 こころ)

現代でもまだまだ全然分かっていない心、精神。どこにあるの?どんな仕組みなの?尋ねても尋ねても、誰も漱石のようにその正体を教えてくれません。

心理学や脳科学の発達で早く知りたいなーと思いながら、もしかしてAIが感情を持つってこの構造がハックできたということ!?と、全くの素人がロマンだけで妄想にふけっている今日この頃です。(誰か教えて)

約2000年から1500年前に作られた『倶舎論』は、ヴァスバンドゥが作った仏教の体系的な教科書。
当時の人たちが悟りを目指し煩悩を滅却するために、こころと修行の中で真摯に向き合い、考え、分解し出来上がった体系的な分類が記述されています。(ありがたやヴァスバンドゥ)

そんな倶舎論では、私たちのこころは根(眼、耳、鼻、舌、身)に繋がっていて、根で得た情報が、こころで認識されます。根からきた情報がプロジェクターでピーと投影されていて、そのスクリーンを倶舎論では『心』と言います。

そして『心』に何かが投影されると、私たちはさまざまな反応を起こします。

例として、舌から甘いものを食べた情報が入ってくると、その情報が心に投影されて、付随して『幸せ』という感情が湧き上がってくる。

この付随したものを仏教では『心所』と言います。

私たちの心は根から投影されるスクリーンである『心』と、それに付随する『心所』、この二つで成り立っていると仏教では解釈しました。

いろいろな心所

根からの情報が投影される心は一つなんだけど、それに付随して出てくる心所は一つじゃないんです。

例えば、ケーキを食べた時、舌から心へその情報が投影されます。私たちはケーキを食べて『あまぁーい(´∀`*)』とか、『幸せ〜(*´-`)』とか、『つぶせばカロリーゼロ〜(*´Д`*)とかさまざまな思いが出てきます。(おい)

仏教では実に40以上の心所が定義されています。もちろんこの心所は一つの刺激に対して全部出てくるわけじゃないです。その中の一部が反応の強弱を持って付随してくる。

これが仏教の内的世界の枠組みです。

もっと細かく心所を分けると

心所は法です。実在するものってやつです。40以上存在しますが大きく6つに分けられます。

ざっくり見ていきましょう。

ひとつめ

ひとつ目は何かしら心に投影された時(心は絶えず何かが投影されている)、その反応として必ず出てくるものです。

この枠組みの中には『楽』とか『苦』とか『不苦不楽』とかが入っています。

例えば、暑い夏の日にキンキンに冷えたビール飲むと反応として『楽』が出てくるし、寒い冬場に凍えている状況でキンキンに冷えたビールを渡されたら『苦』が出てきます。

そのどっちでもないよーというのが『不苦不楽』です。

心は私たちが寝ていようが気絶していようが絶えず何かを映し出されていますから、このひとつ目のグループの心所も絶えず反応して出てきています。

全身麻酔してる時に鎮痛薬一緒に入れてるのと同じ理論です。(分かる人には分かる)

このひとつ目のグループを大地法と言います。

ふたつめ

二つ目は『善い心』のグループです。

大地法と違って起こったり起こらなかったりします。

ではここでいう善悪ってなんなのでしょうか。社会的な善悪なのか仏教的な善悪なのか。

社会的な善悪は今も昔も変わらず理解しやすいです。妊婦さんに電車の席譲ったーとか、被災者に募金したーとか。すると良い気持ちになるやつです。

仏教的な善悪はこの考えとは少し異なります。仏教では、業の発生を抑え輪廻を抜け出し、涅槃に至ることが善いことです。

善行であれ悪行であれ業を生み出してしまうと輪廻から抜けられず仏教の目的は達成できません。

世俗的な善行は自身を来世にもっと良い世界へと導く力となる、つまり輪廻を加速させると考えるからです。(なんてこったい)

仏道修行者はその行いに世俗的な善、心所が発生しないように、善意の自覚なく、見返りも期待しない、そんな状態で一般的な善い行いをします。

『あ、困ってる人がいるから助けよう!』ではなく、息を吐くかのように自然と行います。(聖人かって思ったら本当の聖人だった)

世俗的や善の心は仏教用語では『有漏の善心』、仏道で涅槃に至るための善の心は『無漏の善心』と言います。

このような善心がもとになる二つ目のグループを『大善地法』と言います。

ちょっとまとめ

ちょっとややこしくなったので少しまとめます。

私たちの心は根からきた情報が映し出されるスクリーンです。そのスクリーンは客観的な情報の反映であり、善も悪もありません。

例えば体重計に乗ったときに一週間前より2キロ減ったとして、2キロ減ったというのは単なる事実であり、意味はありません。これに対してよっしゃ!!と思うのが心所です。

ペナント中の金本にとっては増量しなければとマイナスの印象を受けるかもしれませんし、その事実に対して起こる心所は人それぞれです。

根からの刺激は絶えず心に映し出され、それに付随して心所が構成されています。

心所は大きく6つのグループに分けられ、その2つを紹介しました。

仏教で言う善い心とは無漏の善心であり、有漏の善心を土台とした悟りのための善い行い、すなわち仏道修行を指します。有漏の善心にて善行をする事は悟りへとは繋がらないため、人を助けるときは見返りを求める事なく行わらなければならないと言う事ですね。

この有漏の善心を解脱のパワーに変えるのが大乗仏教でした。(般若心経の空の思想)

次はまた心所の3つ目のグループからいきます。

今日はここまで、ではまた!

参考・おすすめ

▼釈迦の仏教が考える世界観がよく分かる本。物質論も精神論も時間論もエネルギー論もとても緻密で興味深かった一冊。

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