【倶舎論③】物質界とつながるこころの世界

お疲れ様です。

最近ONE OK ROCKのwherever you areを知っていい曲だなぁと思っていたら、2010年リリースですよと教えていただきました。GoooodmenのSukeです。(出会えて良かった)

今回は前回の『【倶舎論②】こころの世界を明かす!内的世界のしくみ』の続きです。あなたがwherever you areを聞いて感動した時、精神世界はどうなっているのか!

ではさっそく。

●前回のまとめ
こころの世界は心と心所で構成される。心所は多種多様あり、刺激に対して何が起こってくるかによって心の様相が変わる。

いろいろな心所

もっと細かく心所を分けると

みっつめ

前のタイトルで『有漏の善心』と『無漏の善心』をやりました。

みっつめはみんな大好き悪い心。(ぐへへ)

仏教では心と心所のあり方を良いやつ、悪いやつ、どっちでもないやつに分けます。そしてどっちでもないやつを『無記』と言います。

この無記はどっちでもないやつなのに、さらに二つに分けられます。『ちょっとだけ悪い方にいる無記』と『完全に無記』です。(なんだそれ)

この『ちょっとだけ悪い方にいる無記』は例で言うと、『自我』とかがそうなんだそうです。『私は確かに存在する』という誤った認識でした。

この世に実在するのは『法』だけですから、私という実在はこの世にありません。『無我』を理解することが仏教修行の大切な行いでした。

無漏の善心が起こることを妨害して、仏道修行の邪魔をするやつ、これが『ちょっとだけ悪い方にいる無記』になります。

ここでいう悪いとは仏教的に悪いということですね。

この大悪ではない、ほのかな煩悩こそがなかなかやっつけるのに苦労する大敵となるようです。自我は無明とならぶ煩悩界のツートップでしたから。

常識や世間といったフィルターこそ変革するのは難しい。現代社会にも通じるものがあります。

とにもかくにも、みっつめの心所には完全に悪い心所と『ちょっとだけ悪い方にいる無記』が含まれます。

このグループを大煩悩地法と言って、『無明、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙』がここいます。

特に無明、煩悩の大親分でした。

無明とは、私たちが世のものごとを正しく観察し、正しく理解することを妨害する、悪質な愚かさを指す。そしてこの無明が、私たちの苦しみの一番おおもとの原因だとされているのである。無明のせいで世の中を自分に都合よくねじ曲げて考える。そのせいで私たちは、間違ったことを考え、してはならない行動をとる。そしてそれが業を生み、私たちを輪廻させる。無明こそが、あらゆる煩悩のおおもとであり、苦しみの根源である。無明(癡)を含む六種の随眠を修行によって断ち切り、それによって随煩悩も消す。それが「煩悩を消す」ということなのである。

仏教は宇宙をどう見たか-アビダルマ仏教の科学的世界観

根からの刺激が心に反映された時、この6つが起こってしまっているとその心・心所は『ちょっとだけ悪い方にいる無記の心・心所』か、『悪の心・心所』と呼ばれます。

この二つを合わせて『染汚(ぜんま)』と呼びます。(かっこよ)

染汚となってしまう心・心所(無明、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙)はいずれも煩悩です。

煩悩って

煩悩って二つあるんです。『随眠』と『随煩悩』。

『随眠』の方が上位なイメージ。随眠に付随してくるのが随煩悩。随眠を消すと隋煩悩は自然と消える。

随眠は『貪、瞋、癡、慢、疑、見』の6種類あって、段階を追い少しずつ消していくのが仏道修行であり、完全に抹消するのが悟りの境地です。

ただこの随眠と大煩悩地法は中身が異なります。

大煩悩地法は頻繁に現れるものなので、大元の随眠よりも随煩悩の方に多くが位置しています。

随眠で言う『癡』は大煩悩地法でいう『無明』と同じものです。

簡単にまとめると煩悩は数多くあり随眠と随煩悩からなる。その多くある煩悩の中から頻繁に現れる六つが大煩悩地法に選ばれ、カテゴライズされていると言う話でした。

仏道修行では、煩悩の中の随眠を段階的に消していくことを目標としています。

消すと言っても単純に起こらないように注意するということではありません。そのようにするだけでしたらアンガーマネジメントやらなんやら自己啓発本を読むことでもクリアできます。

煩悩を断つということはその煩悩が起こる可能性すら0にするという事です。起こりようがない状態まで持っていって初めて煩悩は断てるのです。

残りの3つ

残りは『大不善地法』、『小煩悩地法』、『不定地法』の3つがある。

これは参考にした書籍の筆者も省略していたので飛ばします。(えへ)

心・心所の分け方

物質世界では、その世界をまず法と仮説に分けました。そして法も認識するものと認識されるものに分かれ五根と五境が出てきました。

仏教のこころ、つまり心・心所は、善悪と無記の3つに分かれます。

そして善は『有漏の善心』と『無漏の善心』に分けられ、無記は『ちょっとだけ悪い方にいる無記(本当は有覆無記って言うよ)』と『完全に無記(本当は無覆無記って言うよ)』に分けられます。

心の善悪を悟りを開くという目標に向けて細かくカテゴライズし、煩悩の正体を明らかにし、一つずつ滅していく。

やはりこの時代の仏教は宗教というよりも科学的な側面が強く合理的な印象を受けますね。

第6の根

先ほどもありましたが、現実世界には認識するものと認識されるものがありました。

認識するものは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。仏教用語で言うと眼、耳、鼻、舌、身。これをまとめて五根と言いました。この五感は物質世界にありながら心・心所と繋がっているから特別なんだと。

一瞬の時間を止めて私たちは自身を観察した時に、五根から得られた刺激は心に映し出され、同時に心所が起こりその起こった心所次第で心・心所は善悪、無記に染まる。

つまり、善悪、無記に染まった五根からの刺激が心に映し出されている。

ある瞬間では大煩悩地法の心所が起こった眼からの刺激が、ある瞬間では大善地法が起こった身からの刺激が映し出されているといった具合です。

この瞬間というものを、仏教では『刹那(せつな)』と言います。(みなさんは何を思い出しましたか?私はセツナレンサ)

刹那ごとに五根のいずれからか刺激が送られて、何かしらの心所が起こり心・心所を形づくる。その繰り返しが私たちのこころの中では無限に繰り返されています。

この刹那という時間単位はおよそ100分の1秒。1秒間に100回は切り替わっているということです。

映像の世界だと、テレビは1秒間に30回の画像が切り替わって映像の体を成しています。(30fpsという)最近のYouTubeとかだと60fpsもあるみたいだし、iPhoneでも60fpsで撮影できるようになってるよね。(動画撮影画面の右上?に表示されてる30とか60のやつ)ゲームの世界だと120fpsとかのモニター使うみたいです。動きがサックサクなんだと。

とにもかくにもこの刹那で表される100fpsの心・心所は人の目にも止まらぬ速さで変化しているという事です。

私たちは普段、何かを急に思い出したり、考えを巡らせる中で、次々と思考が変化したりすることがあります。

仏教ではこのことをある刹那の心・心所が、次の刹那に影響を与えていると考えました。

つまり、ある刹那の心・心所は次の刹那の心・心所の根となることがあると。

ここに第6の根が正体を現しました。

根としての心・心所は『意根』と呼ばれます。そして根が刺激を与え生じる心を識と言います。眼が刺激を与え生じる心であれば眼識、意が刺激を与え生じる心であればそれを『意識』といいます。

これは現在の意識という言葉の語源ですが、その意味は異なります。現代の意識はconsciousnessの日本語訳として付けられました。

眼識、鼻識、舌識、身識、耳識、意識をまとめて六識といいます。(ワンピースの六式ここから来てる説。尾田栄一郎ぜったい仏教詳しいもんね by Suke)

人は物事を同時に処理できるのか

この刹那ごとに異なる識が表されていくことから分かるように、倶舎論では眼識と耳識、およびその他の識は同時には成立しません。

例えばテレビを見ていたとしても、映像としての認識と、音声としての認識は全くの同時ではないということです。

これも非常に興味深く、現代の私たちの脳においても同様のことが議論になっています。物事を同時に捉えたというように処理するのは脳の補正機能であり、前に話したカニッツァの三角形と同様錯覚なのではないかということです。

仏教修行者たちはこのことをその瞑想の修行の中に体験しました。瞑想では猛スピードで飛び交い変化を続ける心・心所を捉え、6つの識から一つずつシャットアウトし一つの識に全神経を集中していったのです

こころは何処にあるのか

ここまで話してきたこころ(心・心所)は一体何処にあるのでしょうか。脳なのか心臓なのか、現代でも答えは出ていません。

当時のインド社会では、命の中心地は心臓でした。仏教界でも心・心所心臓にあると考えた人はいたのですが、倶舎論は違いました。

物質論で話したように、物質界と心・心所を繋いでいるのは五根だけです。つまり心・心所は物質界にありません。

心・心所の場所は空間的に特定できないというのが倶舎論の立場です。

結局のところ現代科学と同じ立場にあるようです。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

この構造の複雑さ緻密さにはハンターハンターのウイング先生もびっくりです。

仏教の修行者たちは瞑想の中でめぐりめぐり動く心・心所をひとつずつ確認し、この構造に辿り着きました。

有覆無記が厄介とか、さすがですよね。

悟りを目指す仏教の心の捉え方、少しでも分かりやすく伝われば幸いです。

ではまた!

参考・おすすめ

▼釈迦の仏教が考える世界観がよく分かる本。物質論も精神論も時間論もエネルギー論もとても緻密で興味深かった一冊。

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